クラシック音楽 名盤・名録音探しの旅

シェリングのベートーベンをエソテリックで聴く

c0067901_22261645.jpg ベートーベン/Vn協奏曲 
 シェリング
/ハイティンク/
アムステルダム・コンセルトヘボウ管
  ESOTERIC(2014.9)

冒頭の4つのティンパニーの音を聞いただけでこの盤のリマスターの素晴らしさがわかる。ティンパニーの皮の種類、締め具合、スティクの種類まで聞き分けられそうな音だ。コンセルトヘボウ管の弦セクションの美しさ、楽器の分離も際立っている。

しかし、1楽章を聴きとおしてみると不思議な感じを持った。バイオリニストの「心の熱さ」というか体温がほとんど伝わってこないのだ。技術的にどこという破綻があるわけもない。むしろややゆったり目のテンポで念を押していくような歌い方でやや生硬な音だが、十分に美しい音色なのだがバイオリン特有の「色気」が感じられない。もちろん、ムターのような感情のこもった演奏は極端な例かもしれないが、しかし、これでは無表情すぎないか。インテンポでポルタメントがかかるところもない。

2楽章はベートーベン音楽の中でも静謐で美しい旋律美にあふれた楽章だ。ベートーベンは協奏曲以外でも交響曲第2番の2楽章や弦楽四重奏でも美しいメロディーの作品を残しており、シェリングはここでも丁寧の一語に尽きる演奏ぶりである。バックもハイティンクらしく独奏者に寄り添うようにテンポを動かさずじっくりと丁寧な演奏である。ここでも動かないテンポのため「歌う」という点で物足りなさが残る。やるべきことは全てやっているのである。この楽章で「踏み外し」というのはおかしいがもう一つ「突き抜ける」何かがほしいと思うのは欲が深すぎるだろうか。沈着冷静な模範的な演奏である。録音はここでも美しい弦の広がりやホルンをはじめとする管楽器群の音に奥行き感があり、加えてコンセルトヘボウのホールの素晴らしい響きを遺憾なく聴かせてくれる。

3楽章への移行ももっと弾むような「入り」を期待したがやはりここでも「ほど、ほど」である。楽譜を見ているわけではないがおそらく正確に引いているのだろう。でも、「正確」が演奏のすべてではないだろう。

この演奏以外にもシェリングのベートーベンはイセルシュテット/ロンドン響(1965年録音)の名演といわれるものもあって、こちらはレコード時代に何度も聞いているがその時はあまり感じなかった「物足りなさ」を今回、格別音の良いCDで聞いてみてその原因に気付いた。この盤が出るまでシェリングの演奏というのはしばらく「忘れられた演奏」になっていたのではないか。おそらくこの新たなリマスター盤によって見直されることになるだろうが、今はCDも手軽な値段で聞けるようになりいろいろな演奏家の演奏が聴ける今、この盤が「いま」自分に問いかけるものは、演奏の持つ「新しさ」とは、「普遍性」とは、ということだった。

因みに両演奏の演奏時間を並べてみると次のようになっていた。

旧録音 1楽章25:26  2楽章10:16 3楽章9:48

新録音 1楽章26:14 2楽章9:33 3楽章10:17


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# by classical-clatter | 2014-10-27 22:43 | 協奏曲

バウル・クレツキ/ベートーベン/交響曲全集

パウル・クレツキ/ベートーベン/交響曲第1~9番/チェコ・フィル


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重厚・長大型の演奏とは対照的な内声部がくっきりと聞き取れ、強い主張が聞かれるものではないが、オーソドクスな所謂、正統的な演奏である。以前より聞いてみたいと思っていた録音で、たまたま中古専門店に寄った際、1300円で購入。これは予想以上の感銘を得られ、掘り出し物であった。
60年代中期の録音なのでやや高音で刺激的な音(第3番の出だしや5番の4楽章)となることもあるが、全体的としては好録音の部類だろう。スプラホンレーベルとしては上出来。それともデノンのMSソニクマスタリングの成果だろうか。
ポーランドの指揮者で1973年、73歳で亡くなってしまっており、私がまだ大学生だった頃でコロンビアから1000円レコードが発売され、そのシリーズの中に確かこのベートーベンも含まれていたとことを思い出す。だからイメージとしては、一流というよりは少しマイナーな指揮者というイメージ。勝手に思い込んでしまっただけですが。
ドイツの指揮者によくある低音の上にメロディーを乗せていくやり方ではなく、程よいバランスで各楽器が鳴らされており、各楽器の歌い継ぐ様子もさりげなく、聞き心地が良い。1.2,4.7番はその良さが特に顕著。解釈は特に粘るでもなく、歌いすぎるでもなく、中様の『美』といったところだろうか。しかし、だからといって個性がないということではなく歌うべきところは歌い、あえて言えば「大見え」を切ることはない、というべきか。それと音楽が自然に流れており、私の注目指揮者の一人でもあるイヴァン・フィッシャーの様に録音としては素晴らしく、よくかんがえられているとは思うものの音楽流れは不自然で聴き手の集中力をそぐタイプとは一線を画しているような気がする。
また、近年の個性的なマエストロ、ティレマン(時代主義的な演奏)やプレトニョフ(個性的な解釈による演奏)のような強烈な個性は感じられないが、却ってそこが『美点』だと思う。ベートーベンの音楽が「素直」に鳴り響いている。
もっと見直されてもよい演奏ではないだろうか。
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# by classical-clatter | 2012-10-23 19:25 | 交響曲

レヴァインのモーツアルト

UCCG5011
 モーツアルト/交響曲第40,41番 ジェイムズ・レヴァイン/ウィーンフィル
1989年の録音であるから録音されてから、かれこれ20年が経過しているわけである。今頃そんな演奏のレビューもないだろう、というかもしれないが聞いてなければ個人的には新録音である。言い訳とこじつけではあるけれど…
 さて、当時も評判は良かったと記憶している。アーノンクール、ガーディナー、ピノックなどの古楽器によるオーセンティックな演奏が台頭してきた時代にレヴァインは、Vnの第一と第2を対向配置に、楽器編成を小さめにするなどの工夫をし、楽譜通り繰り返している。リピートは成功しているのか、どうか、個人的にはこれはしなくとも、と思わないこともない。やや冗長な感じがするので。アーノンクールのようにウィーンフィルにオーセティツクな演奏を求めず、現代楽器の良さを生かして弦にはブィブラートを利かせた演奏を要求している。テンポもまさに「適当」な早さだ。編成が小さいので音の分離、各楽器のつながり方もよく聞き取ることができ、センスの良さを感じさせてくれる。古楽器のオーセンティックな演奏でよく耳にするティパニーや金管の大暴れありませんからある意味安心して聞けます。しかし、決して刺激が無い、という意味ではありませんので念のため。

日本では、レヴァインのようなアメリカの指揮者はどうしてもメジャーにならない。クラシックはヨーロッパ、という日本人特有の思い込みがなせる技なのだろうか、古くはオーマンデーやストコフスキーなど、あげるときりがない。あのマエストロ/ジョージ・セルだって、70年の大阪万博にもしも来日していなければ評価はどうなっていたか。かのバーンスタインことレニーだってコロンビア・ソニーの時代はマーラーの演奏だけが高く評価され、NYPとのベートーベン全曲は忘れられていた。レニーのベートーベンはヨーロッパに拠点を移し、ウィーンフィルと録音して初めて評価されたのではないか。NYPとのベートーベン全曲だって、少し荒削り感じはするものの若々しいエネルギーが横溢した良い演奏だと思うのだけれど。
ところで、レヴァインはご存じのとおりメトの音楽監督であり続けている。メトのオケで録音したベートーベンの「英雄」だって-あるんですよ、ベートーベン交響曲の正規録音はこれだけですけど-中々ユニークで捨てがたいのに其の存在さえあまり知られていないのではないでしょうか。やはり音楽に限りませんが、妙な固定観念をもって接してはいけないのですよね。
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# by classical-clatter | 2010-03-29 20:33

チェリビダッケのブル5

ブルックナー/交響曲第5番 セルジュ・チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
(altus alt138/9)

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「東條宣夫氏が幻の名演奏」という著書でこの演奏を紹介している。チェリ(以下このように表記)も80年代中頃まではこの録音に聞かれるようにブルックナーだからといって超遅速で哲学的な(?)演奏をしていたわけではなかった。70年代、シュットガルト放送響を振った演奏がNHKのFMでしばしば流されており、私も当時の流行のエアチェックしながらチェリのハイドンの後期交響曲やベートーベン第4番、ブルックナーの第4番や第7番などを「いい演奏だな」と思いつつ聞いていたことが懐かしく思い出さる。音楽の構造が細部まで見通せるような演奏スタイルは晩年にいたるまで変わらなかったように思う。どこがどう、というわけではない。これはチェリのブルックナーなのだ。ブルックナーの演奏は指揮者の顔が見えるものとそうでないものがあるように思うが如何。その最右翼がカラヤンとこのチェリではないか。(チェリにしてみれば天敵カラヤンと並べられるのは心外ではあろう。しかし、質が違うものの音を究極までに磨き上げるところは似てはいまいか。)

 70年代のチェリの演奏で珍しいところでは、アルゲリッチをソリストに迎えてのシューマンのピアノ協奏曲(もちろん放送音源)、この演奏などは二人の超個性的な演奏家同士のまさに真剣勝負の演奏で、それはされはスリリングな演奏。チェリ、厳格でベームと同じく「小言辛平」か、と思うとそれだけでなく独特な「美」の感覚も持ち合わせているところがベーとの相違。

 当時の演奏スタイルは、晩年のミュンヘン時代に神のように崇められ、超遅速な演奏していた時とは異なり多少ゆっくりでも、他の指揮者の指揮からは聞こえないような音や響きを聞かせていた。
ブルックナーで言うなら本流はヨッフムやマタチッチ、そしてヴァントや朝比奈らであろうが、明らかに音楽の組み立て方、響かせ方が違う。そこが私のようなアンチ・ブルにとっては何とも新鮮に響いて、心地よかったものだ。それと本人が得意していた割には晩年まではブルックナー指揮者とは思われていなかったではないだろうか。
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# by classical-clatter | 2010-03-23 15:06

コンビュチニー演出「アイーダ」


ヴェルディ/歌劇「アイーダ」
ペーター・コンヴィチュニー 演出
アイーダ(エチオピアの王女):キャサリン・ネーグルスタッド
アムネリス(エジプトの王女):イルディコ・セーニ
ラダメス(エジプトの司令官):ヤン・ヴァチック
ラムフィス(祭司長):ダニロ・リゴザ
指揮:ウォルフガング・ボージッチ  合唱指揮:大勝秀也
管弦楽:東京都交響楽団  合唱:東京オペラシンガーズ、栗友会合唱団

4月17日、オーチャードホールでの演奏会を聞いてきました。舞台は簡素の一言。凱旋場面の「豪華絢爛」、衣装の「エギゾチズム」、主役の3人の愛の「ロマン」と「愛憎劇」、普通ならこのオペラに使われるどの形容詞も100%ぴたりと当てはまらない。予想していたが舞台装置による場面転換らしきものは殆ど無く、シンプルにしてユニーク。オペラに「夢」と「ロマン」を期待する向きには120%裏切られること請け合いだ。そして、当然予想された結果なのだが、演奏には「ブラボー」、演出にはコンヴィチュニーが舞台に現れた途端、会場を満たした「ブー」の声に象徴されていた。個人的には数は多いとはいえないオペラ体験とはいえカーテンコールの無い舞台、そして演出に対する強い「ブー」に満ちた舞台は初の体験となりました。控えめなはずの日本人もここまでやる時代になったんですね。
コンヴィチュニーといえば、初演のときに観客からモノが投げつけられる、といったスキャンダラスな「伝説」に事欠かないんだそうで、94年、オーストリア・グラーツで制作された「アイーダ」の初演も例外ではなかったんだそうです。しかし、その「アイーダ」は再演を重ね、10年以上の時を経ているのだといいます。10年続けば普通は「名演出」の範疇でしょう。
 さて、肝心の歌と演奏です。アイーダ役のキャサリン・ネーグルスタッド。美声と美貌(びぼう)を兼ね備えた21世紀のスターというキャッチは伊達ではなかった。時に可憐、時に堂々たる歌唱。相手役ラダメスを歌うテノールのヤン・ヴァチック、メタボ気味の体形にさえ目を瞑れば堂々たる押し出しと美声で聞かせてくれた。一部少し不安定な歌唱も聞かれたとはいえ、たいした傷とはいえない程度。エジプト王のコンスタンティン・スフィリス、祭司長ラムフィス役のダニロ・リゴザらの脇役も堂々たる歌唱でヴェルディの歌の世界を充分堪能させてくれた。
演出にも触れておかねばそれは不公平というもの。額縁つきのこぢんまりとした舞台と白い背景、そこに置かれた対照的な赤いソファ、衣装も現代風の軍服にドレス。
舞台背景は違えど「所詮は「アイーダ」とはこういう人間ドラマだ」と主張しているようにも感じました。王冠もクリスマスで使う安っぽい紙の三角帽、これも権威の象徴を皮肉っているようにも感じましたが如何なもんでしょうか。女性は現代にも通じる姿を、男の方はどちらかというと戯画的に描かれいるように感じましたが演奏評を聞いてみたいものです。
 「アイーダ」で描かれる愛の世界、戦争の悲劇を今、日常の世界で起きている現象に置き換えようとしているでしょうか。圧倒的な「ブー」に満ちた会場となってしまい私としても演出に酔うことはできませんでしたが、ヴェルディの音楽には充分堪能できたことを報告しておきたいと思います。それと都響、大健闘をつけ加えたいと思います。
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# by classical-clatter | 2008-05-19 11:03 | オペラ

ラ・プティット・バンド/モーツアルト




c0067901_1537617.jpgモーツアルト/VnとVlaのための協奏交響曲変ホ長調K361
  /Vn協奏曲第3番ト長調K216
寺神戸 亮、シギスバルト・クイケン/ラ・プティット・バンド

この演奏も1995年5月の録音だから速いものではや13年という刻が経ってしまっているのに改めて時の経つことの早さを感じた次第。当時を振り返ると古楽器演奏がいよいよ洗練の時代を迎えつつあった時だろうか。アーノンクール、トン・コープマンそしてこのクイケン率いるラ・プティット・バンドやブリュッヘン&18世紀オーケストラの演奏。ひと世代前がコレギゥム・アウレウムの演奏。そして、現代はノリントンやフィリップ・ヘレベッヘなどに代表される演奏がその代表なのだろう。私などはコレギゥム・アウレウムの演奏をLPで楽しんだ世代で、その後の古楽器演奏にはどちらかという「うるおい」が感じられず、「チャレンジ精神」は感じられてもどちらかという「うるさい」演奏というイメージでコレギゥムほどは積極的に聴きたいと思わなかった。
 その傾向は90年代というCDの全盛時代になってもほとんど変わらず、この演奏も多分一度はどこかで耳にしているのだろうが、特別に印象が残っていない。しかし、今年、デノンのクレストシリーズで再リリースされたので聴いてみたところ、これが「素晴らしい」の一語に尽きる演奏なのだ。
古楽器演奏というとバイオリンはノンビブラート、金管楽器とティンパニーが荒々しく、むき出しの音で鳴らされる、というイメージなのだが、この演奏は洗練されているのだ。協奏交響曲の第2楽章などは古楽器演奏のイメージを変えるほど情緒纏綿としていて、歌があるのだ。何とも「しっとり」としていて、モダン楽器にはない良い味が醸し出されている。テンポも快速調というのではない。演奏全体が非常に立体的な響いていてスケールは当然小編成という制約から逃れられないものの、小編成の演奏ゆえに各楽器のメロディーの受け渡しがくっきりと聞き分けられるなどの効果を聞き取ることが出来る。或るレコーディング・プロデゥーサーが話していたことだが、こういう小編成の演奏は大きな会場だと音が貧弱に聞こえ、かえってその魅力が伝わらない、というような趣旨のことを語っていたのを本で読んだ記憶がある。東京の会場でいえば紀尾井ホールかカザルスホールクラスの規模の会場が適しているのだろう。ただ、人気が出るとそれにつれてギャラが上がり、大きな会場でないと採算がとれないため、大会場での公演となり、これが逆に評判を落す要因になりかねないから、人気が高くなってほしいと思うのと裏腹である。公演(営業)と演奏会場の規模は難しいものである。しかし、この演奏は「ほんとに良い演奏だなー」と久しぶりに思わせてくれた。
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# by classical-clatter | 2008-03-17 15:37

庄司紗矢香 デビュー盤

c0067901_1355778.jpg《ヴァイオリン協奏曲 第1番 変ホ長調》作品6
庄司紗矢香(vn) ズービン・メータ/イスラエルフィルハーモニー管

99年にパガニーニ国際コンクールで16歳、コンクール史上最年少、かつ日本人として初めて優勝。17歳のグラモホンデビュー盤である。若々しいのは当然として、結構艶ぽい演奏なのに吃驚である。曲自体はいつもこの曲を聴くと思うことだが、3つの楽章がそれぞれあまり関連していない、-有機的構成感のない、というべきか、-ひたすらバイオリニストのもてる技巧を聴かせる曲だな、と再認識した。
 演奏者のデータを知っているから若いのに「すごい」、「艶ぽい」などと思うけれどブラインドで聴かせられたら17歳の演奏だなんて感じる人はいないのではなかろうか。2楽章の叙情的な歌い回しも素晴らしい。テクニックも文句なしだし、音色もいい。このディスクを聴くのは初めてではないが、こうして自分の手元にディスクを置いて何回か聴いてみると録音から既に8年の歳月が経っているが、この日本人女性バイオリニストのレベルの高さは間違いないものだ。演奏の傾向としては、先輩の諏訪内晶子のあまり色づけのない演奏(ピュアな音色と共にテンポ)とも異なるし、五島みどりの万全のテクニックを駆使したオーソドクスな演奏とも違う。曲も曲だからか、比較的、情感あふれた演奏をする演奏家なのだろうか。対極はハイフェツ(比較があまりに大物すぎますか?)か。
 それにしてもメータはよく新人の伴奏を務める指揮者ですな、五島みどりのデビュー盤もやってましたね。レコード会社も頼みやすいのでしょうかね。
蛇足ですが、本来、この曲は変ホ長調で書かれているのに、独奏ヴァイオリンのパートのみニ長調で書かれていたそうです。(独奏ヴァイオリンの調弦を半音上げるスコルダトゥーラを行って、「楽譜どおり」演奏)こうすることによって他の弦楽器よりも独奏の音色を輝かしく聴かせる工夫をしていたといいます。全曲を通して、二重フラジオレットやスピカート奏法、急速な3度のダブル・ストッピングなど駆使し、バイオリニストの技術を誇示する難曲の1つであることは間違いないですね。
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# by classical-clatter | 2008-02-01 14:01

遅速の美/ジュリーニ・モーツアルト

ジュリーニ/モーツアルト 交響曲第39番~41番、協奏交響曲変ホ長調
ベルリンフィル(1991-1992録音) ソニー

とにもかくにもこんなにゆったりと歌うモーツアルトは皆無でははなかろうか。同じ時期にミラノスカラ座管弦楽団を振って録れたベートーベンの交響曲集(第9番だけ未録音)があり、同じコンセプトで演奏された録音がある。こちらは以前、このレビューで私としては全く納得できないベートーベンだ、と書いた。ならばよせばいいのにそのコンセプトで演奏されたことが想像に難くないモーツアルトを聴こうというのである。
当然、また外れか、と思ったところこの演奏、何とも良いのだ。中でも第39番が特に良い。遅いことは遅いのだが、ベートーベンでは填らなかったリズム無視、ひたすら「歌う」スタイルが何ともチャーミングで心地よく、填っている。これはお薦めである。第1、2楽章は歌うことに徹底し、第3、4楽章は歌とリズムのバランスがほどよく調和している。(しかし、それでも遅速演奏にかわりはない。)かって、アメリカのシカゴ響やロサジェルス響で聴かせた切れ味の良いヨーロッパ的な演奏と、この晩年の演奏は同じ指揮者の仕事とは思えないものだ。バントは死ぬまでバントだった。指揮者の晩年にテンポが遅くなった代表としてはクレンペラーやチェリビダッケが代表といえるだろう。しかし、一口に同じ遅い演奏といってもジュリーニを含めこの三人、三者三様だ。チェリビダッケは遅いテンポで歌うが細部を緻密かつ細密に描きあげ、クレンペラーはテンポを落とすことにより普通のテンポでは聴けない歌や曲の構造まで聴かせてくれた。ジュリーニの行き方はそれらとはまた少し違うようだ。歌う、といっても声高ではないし、テンポは遅いが音楽は重く引きずるような演奏では決してない。晩年のベームの老醜などはここにはない。
ベートーベンに懲りた方も時間と懐が許すなら、再チャレンジの価値は十分だと思うのだが。
その遅さの例としてカラヤン(1970録音EMI)と比較しておくことにします。

c0067901_1422230.jpgジュリーニ カラヤン
1楽章 13:03  8:35
2楽章 10:08  8:21 
3楽章  4:29  3:57
4楽章 8:31   4:07
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# by classical-clatter | 2008-01-15 14:04

今年最初の山歩き

c0067901_21115697.jpg大山/日向薬師周遊ハイキング
伊勢原駅→日向薬師→大山(見晴台折り返し)→阿夫利神社→大山寺→伊勢原駅

 1月6日(日)に今年最初の山歩きに出かけてきました。天気に恵まれ、歩いていると少し汗ばむほど。阿夫利神社側からはケーブルがあるので参拝客も含め大勢の人でにぎわっていましたが、日向薬師側からは伊勢原からのバスも私とパートナー(男です)2名で借り切り状態、という贅沢なスタートでした。日向薬師ではこの時期、既に梅が2分咲き。早い開花ですね・・・
さて、歩き出しても暫く人と会うこともなく、暫くしてから前に二組とおりてくる数名に出会った程度。本当に静かな山歩きとなりました。前日は寒さ対策として簡易アイゼンやらスパッツなどをザックに詰め込んでおきましたが単なる「お守り」となっただけ。でも備えあれば何とか・・・負け惜しみですね。
歩くこと1時間40分ほどで見晴台に到着。(ちょうど12時)先客が大勢いいて、鍋で一杯という宴会組もあったり、ほのぼのとしたものです。珍しいところでは無線の愛好家が4グループほどお正月の交信をしきりにしていました。私たちもここでお昼。一昨年同時期に来たときは20センチほどの積雪があり、更に上を目指そうとしたところ吹雪いてきたため、みんな「日和って」しまい阿夫利神社経由で下山したことを思い出しました。今年は、日当たりの良いところでは霜柱が溶けて田んぼ状態。これも地球温暖化の影響でしょうかね。神社までのコースでは子供連れやほとんど参拝客と思われる人たちとも行き会い、このコースがほんとに一般的なハイキングコースなんだなと、改めて感じた次第。でも山は山なんですよね、低山だといってなめると痛い目にあうんですけど。
帰りに伊勢原から鶴巻へ電車で移動、鶴巻温泉につかってから岐路につきました。ほんとに穏やかな一日でした。

因みに日向薬師は、元正天皇(716年)の頃、僧行基が開創したといわれている日本三大薬師 (他は、土佐の柴折薬師、越後の米山薬師)の一つ。
大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まり。日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきたそうですが、明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移ったそうです。
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# by classical-clatter | 2008-01-07 21:13

ポリーニのベートーベン初期ソナタ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番~第3番
ポリーニ (レコーディング・エンジニア:クラウス・ヒーマン)

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品2の3曲(このジャンルで初めて出版した曲集で、ハイドンに捧げられた作品)は、ベートーヴェンがウィーンに行った直後の1793~95年にかけて作曲されたもので、この時期、彼がピアニストとして活躍し始めた頃に当たる。 しかし、初期の作品であるにもかかわらず、ベートーヴェンの個性が既に色濃く反映されており、作品の規模も中期から後期の作品のそれよりも小ぶりで、その音色も初期のピアノであるフォルテ・ピアノの響きが聴くことが出来る。ポリーニの演奏は、第1番からその条件を当然のことながら念頭に置いて演奏されていることが感じられる。このピアニストの技術、弾かれているピアノの性能からすれば-恐らくスタインウェーイだろうが-もっと大柄な演奏も当然可能のはずである。然し、第1番も2番もそのようには弾かれていない。これは見識だと思う。ただ、第3番は少しスケールアップして聞こえるのは作品のを読んでの結果なのだろう。
私にとってベートーベンのピアノソナタを聴く上での原点はギレリスの撰集である。(残念ながらソ連という国の何と医療ミスでみすみすその偉大な才能と生涯を閉じることになってしまい、誠に残念ながら全集は未完である。)
 最後にギレリスの弾く第3番と比較してみるとそのテンポといい音色といい、そして様式においてもかなり完成度の差を感じないわけにはいかなかった。

・ピアノ・ソナタ第3番ハ長調 op.2-3
ギレリス ポリーニ
1楽章 10:04 9:08
2楽章 8:46 6:30
3楽章 2:58 2:54
4楽章 5:30 5:01

演奏時間を見ても全体的にポリーニの演奏は快速調である。それとギレリスに比べるとその音色の洗練度にはかなりの相違が聞き取れる。ギレリスの演奏は一言で言えば「簡にして要」。足すものはなく、当然のことながら引くものなし、である。「一度お聞きあれ」、といいたい。
 それと録音の差。ギレリス場合、70年代から80年代にかけての録音で4人のエンジニアが録っているが、しかしその録音は質感が統一されており、ピアノ録音のそれはお手本のような録音である。それに比べるとポリーニの録音はこれだけ聴くとそれ程悪いと感じないのだが、やはり比較してしまうとその差は歴然である。もう少し録音にも気を配ってほしいものである。それとポリーニのうなり声というか、気合のようなものが入っているのはご愛敬というべきか。c0067901_2154182.jpg
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# by classical-clatter | 2008-01-02 21:54

バレンボイム/ベートーベン交響曲全集

ベートーヴェン/交響曲全集
バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン
   ソイレ・イソコスキ(ソプラノ),ローズマリー・ラング(アルト),
   ロバート・ギャンビル(テノール),ルネ・パーペ(テノール),
   ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団録音:1999年5-7月、ベルリン
■ 古色蒼然?
全曲に共通する特徴として第2楽章(6、9番を除く)にある共通の特徴が見られるベートーヴェンの交響曲全集である。2楽章が所謂インテンポではなく伸び縮みの大きな演奏なのである。これが成功しているかどうか、私の好みで言うなら「否」である。4楽章全体における2楽章のバランスが悪く、他の3つの楽章が成功しているので余計に「?」がついてしまう。共通するのはテンポの落し方である。何故ここでこんなゆっくり演奏する必要があるんだろう、という感想を持たせる演奏なのである。第3番の2楽章の「アダージョ・アッサイ」他の著名指揮者の演奏と比較すると1分から2分程度遅いだけで演奏時間だけ見るとたいしたことはない。然し、演奏は演奏時間以上に長く感じられる。「遅いこと」それ自体が良いとか、悪いということでない。「必然性」とでもいったら良いのだろうか、全曲のなかでその楽章の遅さの必然性というか、そのテンポに「何故」が納得できればよいのだが、バレンボイムの演奏には今のところそれが感じられない。そんなわけで特に3番は不自然な感じで全体のバランスが良くない。通常の演奏なら2楽章を遅めに設定すると3・4楽章は「早めの演奏」が相場だ。然し、全体的にローギァ、トップ、セカンドのギアの切り替えのバランスが良くないためか、全体が「冗長」な印象を与えるようだ。(因みに比較は60年代のカラヤン/ベルリンフィル、ムーティ/フィラルデルフィア、サバリッシュ/ロイヤルコンセルトへボウ、ブロムシュテット/シュターツカペレ・ドレスデン)
 オーケストラの音色はかなり現代的な音で古色蒼然とした、という音をイメージすると裏切られた思いをするだろう。
(因みに我が家のCDプレーヤーはデノンのSA1。スピーカーはダイヤトーンDS3。デノンのプレーヤーはマランツほどでないにしろエソテリックに代表されるようなかちっとした再生音と対局にあるプレーヤーである。どちらかと言えばソフトな再生音が特徴である。)
 何故、今更、再生装置を持ち出したかと言えば「ニーベルングの指輪」:ジョン・カルーショ著/高橋浩太郎訳に批評家の再生装置の状態が批評にいかに大きな影響をもたらすか、という件があったので敢て書いた次第。
 弦の音は洗練され、かなり透明感があるように聞こえ、所謂ドイツ風の重厚な、ずっしりとした低音に支えられた感触の響きとは異なる。多分そのような演奏は指向していなかったのではないか、とこの演奏を聴く限り感じる。木管も金管もみなハイレベルなテクニック集団を想わせる美しい音を響かせている。1,2、8番の演奏にはある種の「軽味」さえ感じられる。6番などなかなか流麗で美しい演奏で9曲のなかでは一番成功している演奏ではないかとさえ思った。全体として所謂フルベン風ではなく、敢て言えば第2楽章の歌い方にその指向が出ていると見るべきか。
 かって、このオケでオトマール・スイトナーがデンオンレーベルに同曲の全集を録音しているが、こちらはシュターツカペレ・ベルリンの音に独特の味わいがあり、「洗練」「機能美」などとは異なる音の趣であった。こちらこそ良い音ではあるが「いぶし銀」のサウンド、ドレスデン・シュターツカペレとも違う、国際化した現代オーケストラとは異なる響きを奏でていたのでなかろうか。
 バレンボイムはわざわざこのオケを使ってベートーヴェンの交響曲全集を録音した理由として、次のような言葉を述べている。
「ベルリン国立歌劇場で私が出会ったオーケストラは、非常にすばらしいアンティーク家具に、けれどもいく層もの埃に本来の美しさを覆い隠された家具に似ていた。オーケストラのレベルがたいへん高いことは分かっていたので、私はその埃を取り除く作業に着手した。純粋に音楽的観点に立って、イントネーション、アタックの統一、統一のとれた全体演奏、などの本来の美しさを覆っていたものを取り除いた。少しずつではあるが、このオーケストラが高いレベルを持っているという私の判断が正しかったことが実感され、あっという間にすべてがうまく整った。」
 バレンボイムは1991年からシカゴ響、1992年からベルリン国立歌劇場の音楽監督という要職にあり、ベルリンフィルとも近く、またユダヤ資本の受けも頗る良く、その気になればシカゴ響でもベルリンフィルとでもベートーヴェン全集を録音することはできたはずなのである。それなのに、なぜこのオケの起用だったのか?このサウンドがバレンボイムの考えるベートーヴェンの音だったのだろうか。c0067901_22453987.jpg
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# by classical-clatter | 2007-12-30 22:41

シューベルト/シネ・ノミネQC

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シューベルト:弦楽四重奏曲全集 シネ・ノミネ四重奏団(Quatuor Sine Nomine)
録音:1994年4月、スイス、コルソー、サル・ドゥ・シャトネル

 スイスのローザンヌを本拠地に世界的な活動を展開する弦楽四重奏団、“シネ・ノミネ四重奏団(Quatuor Sine Nomine)”(第1Vn:パトリック・ジュネ、第2Vn:フランソワ・ゴトロー、Vla:ニコラシュ・パシュ、Vc:マルク・ジェルマン)。
結成されて以来30年余りとのこと、室内楽の世界の裾野は広いですね。かつてドイツのメロス四重奏団の薫陶を受け、海外では「メロスの音楽的な子供たち」と評されたんだそうです。私の手許にあるシューベルトのカルテットの全集はメロスのものなんです。手持ちのメロスの演奏から受ける印象は録音のせいでしょうか、ホールトーンのないデッドな一時期のグラモホン特有の硬質録音と相まって一言で言うなら「生硬」な演奏だという風に聴いていました。今でもその印象は変わっていません。シューベルトの演奏に私が求めたいたっぷりしたチェロの低音部に支えられた「ふくよかな」な演奏とは対局にある演奏です。この演奏の系譜上にあるシネ・ノミネQSの演奏、ホールトーンたっぷりとはいわないまでも少なくともデッドではない録音なのでメロスほど生硬な印象ではありません。しかし、「かちっ」としたやや辛口の演奏だと思います。弱々しくない繊細さ、とでもいえばよいのでしょうか、所謂「ドイツ風」とも違うし、ロシアのカルテットともちがう、これが敢えて言うなら「フランス風」とでもいうのでしょうか。テンポはやや速めで「歌いぬく」演奏スタイではないようです。ロザムンデや「死と乙女」などはもう少し歌っても良いのでは、という印象を持ちました。アメリカのジュリア-ドや解散してしまったクリーブランド等々に聴かれる機能的に洗練された演奏スタイルとも違うものだと思います。因みに私としてはイタリア弦楽四重奏団の演奏スタイが好みなのです。

 この四重奏団、1975年にローザンヌで設立されたとのことですからキャリアは充分、しかし、レコーディングにはさほど熱心ではなかったのか、或いは録音の機会に恵まれなかったのか、定かではありませんが、結果として録音は多くはないようです。私など今回のリリースで初めてその存在を知った次第。因みに“シネ・ノミネ”、とは“名も無き”という意味だそうです。
 でも、この値段でシューベルトの弦楽四重奏曲の全曲が楽しめるのですから、私の学生時代には考えられなかった「一杯聴く」環境としては最高の時代ですね、感謝。
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# by classical-clatter | 2007-11-12 14:57 | 室内楽

バレンボイムの「グレート」

c0067901_20252648.jpgシューベルト/交響曲第9番「グレート」
バレンボイム/ベルリンフィル ソニー1985年録音

何処かで聴いたことのあるテンポ、楽器の鳴らせかた。そう、バレさんが敬愛してやまない亡きフルトベングラー/ベルリンフィル(1951年録音)の演奏似である。1楽章など念入りに師よりも約3分も時間をかけている。久しぶりに聴く「グレート」、こういう演奏も良いな、と言うことで他の指揮者はどうかと思って聞き比べてみた。
以下は4種類の演奏時間の比較。バレさん、4人の中では一番たっぷり時間をかけた演奏となっていることが一目瞭然。しかし、である。デービスの1楽章などバレさんに続く長さなのにとても早く感じられる。楽章全体に緩急があるのであまり「遅い」と感じないのだ。バレさんは遅いテンポでほぼインテンポでおしている。従って、とてもゆったり、長く感じられる演奏となっている。それと1楽章の冒頭のホルンの鳴らせ方、ここはみんな特徴があって、ケルテスはウィーンフィルに意外にも野暮ったく吹かせている。フルベンは、木訥に、とでもいおうか、少なくとも「スマート」とは言えない演奏だ。
意外なのはデービスのドレスデンの演奏。あのSKDから非常にスマートな洗練された響きを引き出している。これは「いぶし銀」と形容されるSKDの音のイメージとは異なるのではないだろうか。デービスという指揮者は日本ではいまいちの人気だが実はシベリウスやストラビンスキーの演奏では70年代から80年代にかけて一世風靡していた実力派。
ドイツものでこのくらいの演奏は当然と言えば当然なのだが、ボストン響からも当時ヨーロッパを感じさせる音色を引き出していたことを思い出させる。

バレンボイム/ベルリンフィル     17:54 16:27 15:02 14:08
フルトベングラー/ ベルリンフィル   14:45 17:18 11:16 11:38
イシュトバン・ケルテス/ウィーンフィル 13:32 13:47 11:06 11:45
コリン・デービス/シュターツ・カペル・ドレスデン 16:44 13:54 15:00 16:05

表題に戻るがこの「グレート」、「幻想」につぐバレンボイムBPOのソニー録音第2弾となった演奏だそうだ。フルトヴェングラーBPOの演奏をめざしていることは明らかであるが、やはり聞き比べてみるとフルベンは結構テンポが動くのにバレはそれ程ではない。
やはり目指してもそこに「個性」は出るものだということを改めて感じいった次第。
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# by classical-clatter | 2007-10-22 20:26

マズアのベートーベン

c0067901_21221717.jpgクルト・マズアのベートーベン
交響曲第6番・2番/フランス国立管弦楽団(2002ライブ)

旧東ドイツ出身の指揮者のクルト・マズア(Kurt Masur, 1927年7月18日 - )も早いもので今年で御歳80歳。私が学生時代は、ゲバントハウスのシェフとしてビクターからベートーベンの交響曲の全曲がリリースされていたのも30年近く前のことになる。
シュレージエン地方のブリーク(Brieg, 現ポーランド・ブジェク Brzeg)に生まれ、ライプツィヒでピアノ・作曲・指揮法を学び、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、1970年から96年までライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のシェフ。その後は1991年から2002年まで、ズービン・メータの後任としてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督。2000年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任し、2002年4月からはフランス国立管弦楽団の音楽監督も務めている。ヘルベルト・ケーゲルやハインツ・レーグナーなど、旧東ドイツの実力派の指揮者が、ドイツ統一の流れに乗りそこね、自殺やら引退やらした中で、どういう訳かマズアは西側でも成功。しかし、そうかといってその芸風は特別個性的というのでもなく、堅実、中庸。クルト・ザンデルリングやケーゲルのようには個性的な指揮者とは一線を画する。でも世の中とは良くしたもので個性的な物ばかりでは飽きるものと見えて、このマズアとようにちゃんとバランスをとるようだ。

 さて、2002年からシェフをしているフランス国立管弦楽団のライブ録音によるこのディスク、予想に反してなかなか聴き応えがあった。足を踏みならしたたり、グールドのようにハミングしてみたり、チェリ張りに気合の一声が入ったり本来の音楽以外の音が結構はいっているものの、音楽自体は端正で美しい。また、指揮者の年齢とは関係なくテンポもはつらつとしている。「田園」の5楽章ももなかなか美演だ。故ギュンター・バント が没するまで若々しい演奏をしていたことを思えば80のマズアなど年からいえばまだまだ。40年近くロマン的な演奏から古楽器奏法の演奏と色々聴いてきたが飽きることがない。ベートーベンの音楽とはつくづく「奥」が深いと改めて痛感した次第。この先どんな演奏が出てくるか、ベートーベンの音楽にはまだまだ楽しめるだけの深さがあると信じている。
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# by classical-clatter | 2007-10-16 21:22

マゼールのR・シュトラウス作品集

c0067901_21373265.jpgロリン・マゼ-ル/R・シュトラウス作品集
バイエルン放送響

このCDはアルプス交響曲が聴きたくて求めました。以前にリリースされた録音を新たにセットにしたものですけれど、ほぼ1枚のプライスで主な曲が聴けるというのも魅力でしたし。さて、演奏です。技術的にはさすがに指揮にもオーケストラにも過不足はないのですがこれがマゼールのシュトラウスという主張か私には感じられません。アルプスに限って言うなら私は、ティーレマン/ウィンフィル、カラヤン/ベルリンフィル、プレビン/ウィーンフィルが好みの演奏なのです。3つの演奏とも指向が異なります。ワーグナーでは音楽がしばしば停止してしまうティーレマンですが、シュトラウスではよほど作品との相性か良いのか耽美的とでも言うか、妖艶な美しさはカラヤンも「負けそうな程の」できで演奏しています。11曲目の「頂上にて」から終曲の「夜曲」までダイナミックでかつウィーンフィルの弦セクションから何とも言えない美しさを引き出しています。これがライブとは。(勿論、生演奏の一発取りではないのは現代では当たり前ですが)プレビンはこれといって特に強調らしいことはしていないのにティーレマンとは異なる自然な美しさとダイナミックさをウィーンフィルから引き出しておりこれはこれで素晴らしい演奏です。カラヤンは言うまでもなく演出満点の演奏ですが、それがかえって完璧な効果を生んでいないのはやや皮肉な出来上がりと言えましょう。カラヤンはお気に入りの曲を何度も採録した指揮者ですが、この曲ほどカラヤンに合っていると思われる曲はないのに不思議なことに再録音がありません。とはいえ「らしさ」があって私は好きな演奏です。それでは件のマゼールの演奏です。冒頭で言いましたようにかってマゼールが見せた特徴、「マゼールらしさ」が聞こえてこないのです。ウィーンフィルとのマーラー全集でのあざといばかりの強弱とデフォルメ、時折見せる耽美的な表現、或いはクリーブランド響で入れたベートーベンの交響曲全集。室内楽的とでも言えそうな演奏は、ベートーベンの交響曲は「かく作られているのだ」と解説しているような演奏で、好みは別として「らしさ」が横溢していると言えましょう。このシュトラウス作品集では残念ながら「しかし」、なのです。サプライズがありません。指揮術にはたけていますからオーケストラから好かれるのでしょうね、ベルリンフィルのシェフになり損ねた後も「お茶を引くこと」も無く世界中で指揮しまっくっているのはさすがです。でも、30歳代でザルツブルグ音楽祭で指揮した当時の「鬼才」ぶりは今は残念ながら感じられません。そういえばかのブーレーズも今や「円満な巨匠」然となってしまいましたね。しかし、ブーレーズの演奏は今でも「体温の低い」分析的な演奏の傾向は健在ですが・・・・・
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# by classical-clatter | 2007-09-05 21:37

ピリッシュのシューベルト「幻想」を聴いて

シューベルト/ピアノソナタ「幻想」即興曲作品90-1.2
マリア・ジョアン・ピリッシュ(ピアノ) 1987年パリ・サル・アディアール
ピアノ、スタインウェイ

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※CDの写真は21番のソナタのジャケットです。

歌舞伎には役に見合った「任」或いは役者の「任」ということが言われる。現12代目市川団十郎と2代目中村吉右衛門、当代を代表する立ち役であるがその「任」は全く違う。要ははまり役が異なる。団十郎は繊細さよりも大柄で豪快を持ち味とし、吉右衛門は力強さの中に繊細さをうまく出せる役者か。二人の役者の相違は歌舞伎18番の内、仮名手本忠臣蔵の大石内蔵助役、歌舞伎では大星由良助で比較すると、同役を演じるとその演じる「型」の違いもさることながら役者の持ち味(「任」)からくる「味わい」、それは歴然である。

クラッシックの演奏にも演奏家の持つ「任」があるのではないか。
ピリッシュはモーツアルト、ショパンの演奏家というのが代名詞であろうか。しかし、私は、最近エラート時代に録音したシューベルトを聴くまではどちらかと言えばモーアルトにしろショパンにしろ「ただ地味な演奏家」というイメージをもっていた。でもそれは私の聴き方が間違っていただけだったことにシューベルトを聴いて気づいた。地味なのではなく「繊細」な表現なので適当に聞き流すと「何て言うことはない」演奏に聞こえてしまうのだ。ただし、一度この「繊細さ」に気づくと「これはしみじみとした良い演奏だな」と感じさせてくれる種類の演奏である。
1楽章冒頭からして、繊細そのもので「さりげなさ」と「シューベルトの孤独」が同居している。しかし、あくまでも控えめである。内田光子氏の演奏とは全く違う印象、質である。しかも、ピアノは共にスタインウェイを使っているのに。内田さんはいつものように自前のピアノを使用しているのだろうか。勿論内田さんの演奏だって「繊細」なのであるがピリスとは質が全く違う。ピリッシュの演奏は美しい旋律がさり気なく歌われていくのだが「弱々」しくはない。内田さんの演奏は硬質な響きと共に近寄りがたい孤高の「美しさ」とでも言うべきものを感じさせる。
2楽章のアンダンテも受ける印象は同様だ。優美な旋律叙情的な詩が綴られていく。
敢て2人の現代を代表的する女流ピアニストを比較して比喩的に言うなら、ピリッシュの演奏は「脱力して聴ける」演奏。それに対して内田光子氏の演奏は「緊張を強いられる」演奏とでも言おうか。どちらがよいか、それは聴く側の問題である。私は二人の演奏を時によって聞き分けている。
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# by classical-clatter | 2007-09-03 14:56 | 室内楽

内田光子/ベートーベンのピアノソナタ第2弾

c0067901_21295950.jpgベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第28番イ長調 op.101
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 op.106『ハンマークラヴィーア』
 内田光子(p)
 録音:2007年5月 スネイプ


第28番の第1楽章のなんという「遅演」かつタッチの美しさ、独特のダイナミズムはいつもどおり。
しかし、私はこのディスクはこの第1楽章を聴いてかえって全体が解らなくなってしまった。ポリーニ、グルダ、バレンボイム、清水と手許にある全集を引っ張り出して聞き比べるも、今回の内田さんの演奏はどの演奏よりも1分以上遅いのだ。この遅さで何を表現したかったのか、それが感覚的に理解できない。楽譜を読んで、という作業が私、出来ないので、あくまで自分の「耳」を頼りの感覚(感性)勝負なので一度迷路にはいるとなかなか「腑に落ちる」のに時間がかかってしまう。手元に置いてまだ両手ほど聴いてみたが、いまだ「だめ状態」だ。グルダのようにリズムの切れ上がったような演奏とも全く違うし、ポリーニのように1楽章と全体が統一感のある演奏とも違うし、ともかく1楽章が非常に大きな演奏で私にとってはこれが非常にこの演奏をわかりにくくしているのだが、ともかく個性的な演奏だと思う。
「ハンマークラビーァ」の方はテンポといい、リズム処理といい、ほぼ納得の演奏なのだ。
結構ベートーベンのピアノは自分の好きなというか、大事なレパートリーであるのに今回は取り敢ずこんな程度のことしか書けない自分が悲しい。とほほ・・・・
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# by classical-clatter | 2007-08-12 21:30

言葉で奏でる音楽

c0067901_21595266.jpg2007.7.1 NHK ETV特集「言葉で奏でる音楽」を見て

特に印象に残ったシーンの中で特にインパクトのあった部分について私なりにいくつか纏めてみた。
その1:小林秀雄の「モーツアルト」(1946.「創元」)について
「飛躍に満ちた、問題を提起しているようで何処かに飛んでしまっているような文章だと思う。「カデンツァ」が無いんだ、つまり句読点が無いんだな。音楽的でないんだよ。」

 確かに的確な表現だと思った。言い得て妙。そもそも、小林秀雄はろくにモーツアルトのオペラを聴いてもいないのにモーツアルトのオペラを貶めた発言をしている。敢て小林をかばうとするなら文章を書いた当時、日本ではまだオペラを聴ける環境ではなかったという事実だ。まだSPの時代だったのだ。だから余計に知りもしないくせに断定的な物言いをし、その後情報量が格段に増えた時代となっても発言を修正していない、そこに音楽を聴いてものを書く人間としての誠意が感じられず、信用できない。物書きが頭の中でこさえた文章、といったら言い過ぎだろうが、そんなところが無くはないだろうか。
吉田さんは、ある時ある音楽雑誌に若手のピアニストのレコードを褒めた文章を書いたことがあった。しかし、実演を聞いて改めて自分の聞き違えだった、と自ら訂正したことがあった。仮にも音楽評論をなさんとすると人ならこの「心構え」と「潔さ」は必須ではないだろうか。悲しいかな、この現代にこのような心根を持った「音楽評論家」がなんと少ないことか。

その2:「グールド/ゴールドベルク変奏曲」(1955年)について
「グールドの演奏は新しい叙情性を開示している。これはそうあるものではなく、今でも生きている。遅く弾く、これはその後いろんなピアニストがやっている。しかし、グールドが表現したリシリズムは誰もなしえていない。グールドしか聞こえない音楽をやっている。」

 グールドを紹介した吉田さんの文章は、当時としては少数派で大勢は既成のバッハの音楽の演奏の概念から抜けられず否定的な意見、評論が大勢を占めていた。かくいう私も20代の頃、初めてグールドの演奏したモーツアルトのソナタ集を聴いて「これはモーツアルトではない」と思ったものだ。当時はへブラー、リリ・クラウス、ハスキル、少し後ではエッシェンバッハの演奏がモーツアルトだと思っていた。吉田さんの評論は大好きだったが、グールドについては「間違っている」とさえ思ったものだ。当時、いかに聞く耳がなかったか。その後、吉田さんの言われることが「腑に落ちる」のに、この後、20年近く時間か必要だった。このときほど吉田さんの「すごさ」を改めて思い知ったことはない。
アワダジン・プラッツ、ヴァレリー・アファナシェフなどがグールドの系譜を弾くピアニストの代表だろうか。

その3:評論するということについて
「良いものを良いと書くことは誰でも出来る。沢山の魚の中から良いものを見分ける、批評家はそれを心して行う必要がある。しかし、誰もしないことをする楽しさ、喜びと共に責任もある。」
「近年の批評は客観性は高くなっていると思う。しかし、レポート生が強く、感性が足りなくなっているような感じで少し心配だ。」

 この評論についての二つの指摘の何と当を得ていることか。確かに吉田さんが活躍されていた頃はクラッシック音楽を取り巻く状況は「評論の近代」に向かう時期に当たっていたときだと思う。古くは漱石、鴎外といった大文豪が音楽評論を担っていた時代もあり、吉田さんの先輩には古くは野村あらえびす、近いところでは山根銀二などがいたと思うのだが、吉田さんの文体はそれらの先輩達とは全く違う文体と評論手法をとっている。それは楽譜を駆使すること。池辺真一郎氏なども影響を受けた告白しているほどである。楽譜を使って「この一音による」効果を説得力をもって文章に表している。現代の評論家は「この曲は書く演奏されるべき」という観念があり、該当する演奏は褒め、そうでない演奏は一刀両断にきって捨てるかのような評論を見かける。これでは評論家の単なる感想と一つの価値観を押しつけられているだけにすぎない。テンポの取り方、メロディー歌い方、間の取り方等々、少しは説明してくれ、といいたい。その上でその人の感性だと思うのだが如何であろう。
 90歳を超えてまだ矍鑠とされた吉田さんを見るにつけ、残された時間はそう多くはないだろうが、少しでもながく、音楽評論(芸術評論)の指標であり続けてほしいと願うのは私だけだろうか。
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# by classical-clatter | 2007-07-21 22:00

ケネス・ブラナー「魔笛」を見て

「魔笛」(モーツアルト) ケネスブラナー監督  2006年/ギリス/2時間19分

出演:(タミーノ)ジョセフ・カイザー、(パミーナ) エイミー・カーソン、
   (ザラストロ)ルネ・パーペ、(夜の女王)リューボフ・ペトロバ
指揮/ジェームズ・コンロン ヨーロッパ室内管

 時代設定を除けばほぼモーツアルトの「魔笛」を敷衍したオペラ映画と言えると思う。私には時代背景を第一次大戦時においたい意図が正直なところ素直に「腑に落ちる」ところまでいかなかった、というのが実感だ。これはこの映画の重要な「肝」の一つだと思われる。演出家の蜷川幸雄氏は「ケネス・ブラナーの才能は序曲の映像からきらめいている。神話の世界は戦場に置き換えられ、その知的変換の意味を明瞭にする。ヨーロッパの演出家の教養の深さに、ぼくらは脱帽するしかない。」と映画のコマーシャルコメントを出している。氏から直に聞いたわけではないから私には「本当かいな」といったとこだ。また、普段、辛口発言と演出も手がける俳優・江守 徹氏は「ケネス・ブラナーの『魔笛』は、説得力がある。成功の第一は時代背景を第一次世界大戦中に持って行ったことだ。人類の破滅を救うのは人間の叡知だというテーマに万歳!」。ここまで言われると私などは「眉に唾」したくなってしまう。
 私が見たのは新宿高島屋のタイムズスクエアシアター。ここは画面も大きいし、音響はハリウッド映画の音にピッタリだと思う。しかし、オペラ映画(?)には向かないと言っておこう。JBLのスピカーが使われたおそらく5.1チャンネルの再生装置だろうと思うが、少し「うるさい」のだ。演奏自体も指揮者のコンロンの古学風のアプローチは管楽器・打楽器はストレートで堅めな音を響びかせており、弦はノン・ビブラートで全体に快速調な演奏で、これに再生装置の堅い音色が拍車をかけている感じ。タミーノやパミーナのアリアなどはもう少しロマンチックに演奏されても良いんでは、と思ったが、無い物ねだりだろうか。映画という手法が非常に生きていると思ったのは、各アリアでの歌手の表情が演出もあるのだろうが、活き活きとしており、これは舞台とはまた違った視点で見て・聴けたと思う。同じ作り物でもCGでの画面はこれはこれで美しくもありかつ自然に画面を楽しむことが出来た。(コンロンという指揮者は以前はスタンダードな指揮をする人だったと思ったが、いつから古楽風の演奏をするようになったのだろう。)
 終幕の掉尾を飾るパパゲーのとパパゲーナの二重唱など映像と演出は悪くないのだから緩急をつけた歌と演技でも良かったようにも思うのだが如何だろう。また、「魔笛」の劇としての「正邪が突然入れ替わる」という最大の矛盾点、、白といわれていたものが突然黒となる、これはさすがに解決されることはなかったのは仕方ないことかもしれない。ただ、ストーリーの底流にザラストロと夜の女王はかって男女の中にあったことを夜の女王の2曲目のアリア「復讐のアリア」の中に歌い込んでおり、これは監督の一つの見識が示されていたと思う。※夜の女王のアリアは2曲しかありませんが。
 18歳の時に初めて「魔笛」を聴いて以来、40年近く録音や舞台に接してきた身として「魔笛」を広く聴いてもらうには良い映画だと思うものの、音楽だけ聴くなら素晴らしい演奏は他にもあり、映像的には成功しているとは思う反面、平日の映画館が一杯になる映画かな、という思いもした。(当日は火曜日にもかかわらず 、ほぼ満席だった。)
演出で1つだけ気になったのはザラストロと弁者を一体化していたことだ。未だかって、このような演出での演奏は聴いたことはなかったので当初とまどったが慣れてみるとそれほど違和感がなかったことを付け加えておこう。それと、イギリス映画だから台詞・歌が英語なのは当たり前かもしれないが、原語はドイツ語でのジングシュピール、つまり歌芝居、1.2.3も当然、ワン・ツー・スリー、勿論小生はドイツ語などしゃべれる訳ではないがドイツ語での演奏に耳慣れたているので、ところどころ違和感があった事を報告しておこう。最後にブラナー監督の来日会見での演出についてのコメントを。

問い:時代設定が第一次世界大戦に置き換えられていますが、なぜですか?
ケネス・ブラナー監督:
『魔笛』は今まで本当に様々な舞台設定で上演されてきています。最近は月面を舞台にして演じられたり、そもそも『魔笛』の持っている世界観はどんな設定でもできる、あるいは作り手に委ねる作品なんです。そういった中で第一次世界大戦を選んでのですが、物語の中心に人と人が対立する軋轢や摩擦といった抗争があります。そして、それらは解決される。その解決方法は平和やハーモニーを通して解決を見る、そういった争いが中心にある物語なので、第一次世界大戦を背景にしました。またこの時代は非常に叙事詩的なスケールも大きいですし、ロマンスやアドベンチャーといった多くの要素を持ち合わせています。これが『魔笛』が持つ世界観とマッチするのではないかと思いました。それと同時に、とても有名な演出家ピーター・ブルックがかつて言っていた「得体の知れない勘」という直感が自分の中にあって、きっと上手くいくだろうという気持ちも実はありました。
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# by classical-clatter | 2007-07-21 14:51

初の海外旅行記③

3日目(2007.3.13)プラハ発
ウィーン着
チェコの観光2日目にしてチェコからオーストリアへ観光をしながらバスによる移動。
ボヘミアの田園地帯をバスで1時間30分ほど走るとそこはヴルタヴァ川が大きく弧を描いたところにあるチェスキー・クルムロフ。これも世界遺産に登録されているチェスキー・クルムロフ城を中心として中世の姿を今に伝えるこれも美しい町並み。道路は石畳。
c0067901_21133856.jpg1時間ほどかけて散策。現地に行ってから解ったことだが当日はチェコの建国記念日に当たっていたそうで、なるほど市民と思われる人たちが町に多いし、道中、国旗が至る所に掲揚されていてなるほどとその状況を理解。昼食は穴蔵のような作りのレストランで魚のフライと温野菜の付け合わせ。味付けがここでも濃くて半分こなすのがやっと。でも現地のこれが味付けなんでしょうね。食後はバスで一路約4時間かけてウィーンへ。途中国境ではパスポートのチェックの為、ごついお役人がバス内に乗り込んで来て一人づつパスポートを確認。ウィーンの市内に入るとなんとサクラが満開なのに吃驚。初めこちらにサクラがあるなんて思っても見なかったので途中、添乗員氏に「あれなんの花」なんて聞いてしまった。ドナウ川沿いに走ってホテルに到着。ホテルの間近にネオ・バロック様式の2本の尖塔がそびえるヴォティーフ教会がライトアップされていたのが印象的。今度のホテルは5ッ星のドゥ・フランスというウィーンのホテル。小ぶりながら床は大理石張り、階段には作者は分からないものの油絵が飾られていて落ち着いた、そして格式を感じさせるホテル。室内も天井が高くプラハより一ランク上を感じさせるもの。そうこうしているうちに夕食の時間ということで郊外のホイリゲヘバスで移動。ホイリゲといえばワインと音楽だ。ホイリゲはもともと、造り酒屋が今年出来たワインを軒先で有料で試飲させたのが起こりだそうだ。居合わせたお客は我々日本人ツアー客2組と韓国のお客のようでバイオリンとアコーディオンでそれぞれの国の超有名曲(「アリラン」や「上を向いて歩こう」など)を奏でていた。でも、ホイリゲではワルツかチャールダッシュが聞きたかったんだよな。もう一言いうと「ウィーン我が夢の街」が聞きたかった。無理は承知だが、それもエーリッヒ・クンツのあの歌声で。ま、「仕方ない」とすぐあきらめて食事に専念。ここでも量が多いよ、豚肉の蒸料理。そして仕上げはまたもケーキ。またバスに揺られてホテルへとご帰還。「今日こそは眠るぞ」と珍しく二人の意見の一致・・・・・・
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# by classical-clatter | 2007-05-21 21:13



クラッシック音楽やその他道楽の体験帳
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